去年刊行された、増島みどりさんの著書です。
ある年代のサッカーファンからすると有名なサッカー関連のライティング、主に中田英寿関連のインタビュー、著書で名前が知られるライターさんです。
この本は20年前、1998年に発売された『6月の軌跡』(画像左、僕の私物。右が紹介してる本)という日本が初めて出場したワールドカップ、フランスワールドカップに帯同した全メンバー(栄養士、ホペイロ含む全員)にワールドカップ後インタビューをした日本サッカーの歴史的記録の本の、20年後を追った本です。
6月の軌跡は、僕は読んだ時高校生で、その当時あまりに衝撃的な内容に震えた記憶があります。
3戦目のジャマイカ戦で足にヒビが入ったまま中山雅史はプレーしていた、中田英寿も同時にラフプレーでラグビー大に足が腫れ上がる怪我をしていて、ペルージャに移籍してからもそれは尾を引いていたが一切公に出さなかった、小島伸幸さんはサブのキーパーとして、地元のアマチュアチームとの練習試合で、アマチームのキーパーがいなかったので代わりに相手チームに出場を買って出た人格者、などなど、ここでしか知り得ないエピソードの数々でした。
なにより当時は中田英寿のインタビューがほぼ出回ることがなく、マスコミ不信の中でインタビューに答えるライターは限られていました。
その中の一人が増島さんでした。(他は小松成美、金子達仁、ライターではないが村上龍)
当時の中田の取り巻く環境は異常で、内容が全く嘘のインタビューが載ったり(俺は当時の週刊誌で、中田英寿の直撃インタビューとして、練習をしない方が自分は調子が良いから一切練習しない。練習しない事が自分がうまく行っている秘訣、という完全にデタラメな記事をしっかり真に受けて読んだ事がある。実際は練習の虫として有名)、
論語を知人からたまたま借りて片手で持ち歩いたら愛読書と言われたり、
実はストレス性の蕁麻疹でワールドカップ最終予選出場が危ぶまれる事態になっていたり(なんとか完治し出場)、
初のワールドカップで完全に周りがどうして良いかわからなく、オモシロ半分の記事が飛び交い、当時マスコミに無愛想、コメントもしない中田英寿を好き勝手に扱い混乱状態でした。マスコミも舞い上がり、中田英寿を記事にしようと様々な追跡を行い、サッカー外で中田は神経を使う羽目になりました。
のちに日本サッカーとして初めて個人が持つメディア、今で言うSNSに近い個人メディアnakata.netで自身の情報を全て発信する様になる。この後、嘘の情報を即時否定する様がよく見られる様になる。
今では体制も整い、ワールドカップ出るのも普通となり、マスコミ対策も万全でしょうが、久保くんがあそこまでケアされて当たり前の様にサッカー外の部分で邪魔が軽減され、活躍できてるのは、雑音をシャットアウトできる体制を日本サッカー界と先人たちが積み重ねた結果なんだと思います。
当時20歳の中田がこれら全てを対処して背負いきって戦ってた軌跡の一端を見るのにも一役買う著書だと思います。
そして今回の著書だと、シェフの方が当時語らなかった、包丁が実は最終戦後、現地でボロボロにされていた事件など多くが語られています。現地の方とコミュニケーションもしていたので、最終日に、誰がやったかもわからなかったが悲しかったと。
キーパーコーチのマリオはブラジル人なんですが、アルゼンチン戦後、パサレラ監督に(健闘をたたえ)『おめでとう』と声をかけられ嬉しかった、という話を。
アルゼンチンとブラジルは仲良くないんですが、それでも声かけられた、という事実と、日本は3-0とかで負ける、という下馬評も加味しての労いなんですが、今の日本で1-0で負けて『おめでとう』だと嫌味になってしまいますよね。それも含めて、当時の日本というのは1-0でも外国から見て大健闘だった。という事です。
ホペイロの方がアルゼンチンにユニフォーム交換用の新品を用意していたところ、『その必要はない』
と返され『いつか、ユニフォーム交換してくれよって言っても交換してやらないぐらい強いチームに』
という思いを強くした話など、20年で日本がワールドカップ常連国になりつつある中で、皆が様々な思いを抱えここまで来たと言うことに胸が熱くなりました。
当時の日本は3戦全敗、ラストのジャマイカも同じ初出場のチームでしたが、前日遊園地遊びに行ってリラックスした状態、と報道され負ける、という、余裕が無かったのかもな日本、という感じでした。まあジャマイカその後ワールドカップ出れてないんすけどね。
当時のアルゼンチン戦は岡田監督がテレビでよく言ってますが
『秋田はあれだよな、バティストゥータにサインもらいに行く勢いだったよなー笑!』
ようは、相手は格違いのスター軍団で、バティストゥータ以外にもアルゼンチンにはスターしかいなく、皆が仰ぎ見る状態だったと。
そんな中でも中田英寿は『大した事なかった』とペルージャ時代に応えてましたが、(オルテガはアゴが長い、と軽口まで叩いてました)相手を舐めてかかるというか、良い意味で相手をリスペクトしすぎない体制が取れてない日本でした。
2018年、ロシアワールドカップ前に刊行され、ワールドカップ後に読むとより感慨が深いです。
予選グループも突破して、なおかつ、ベルギーとオフェンシブなサッカーであんな撃ち合いをするチームになったんです。
1998アルゼンチン戦を見た当時の感想は『これは一勝は難しいな』
という感じでした。クロスがペナルティエリア内に入らず弾かれる。
シュートブロックが早くてゴール地点まで侵入できない。
今思えば必要以上に恐れすぎてたのかもしれません。
クロアチア戦も、崩しまでは行けても、ゴールまで至らない。
シュケルに決められなければ。
それもバティーに決められなければ、と一緒。
あと一点、が異常に遠い。
1-0が重かった。
韓国は日韓ワールドまで、出てたワールドカップで未勝利でした。8回はワールドカップ出て未勝利だから今思えば異常ですが。24回勝てなかった訳です。
日本もそうなるのかなと。
でも2回目のワールドカップが早くも日本開催で勝利できて。
日本はラッキーだったのかもしれません。
この本は2018年6月発売だったらしいですが、その段階で1998年のメンバー中、6名が20年経って現役だったそうです笑。
もう去年何名か引退してますが、にしても凄い。
あと驚きは野人岡野がワールドカップ予選のワールドカップ出場ゴールを決めたジョホールバルの奇跡需要で未だに食えてるというところでしたね笑。
講演会未だにあるそうです笑。
あと、何名か監督や指導者になってるんですが、皆一様に岡田さんは何歳で監督やってたんだろう?と思いを馳せていたのが印象的。42だったそうです。
加茂周監督が強制更迭され、その後の日本サッカーの命運を監督経験のない岡田さんが全て引き受け。最終予選を引き受け、突破し、本戦で惨敗し、息子がイジメられた、登校できなくなる、様々にサッカーのせいでいろんなものが狂わされた訳です。
そしてその後、J2、J1も制し、雪辱を果たし16強まで進むのはドラマの様な。中国リーグまで指揮し。
井原正巳さんはどんな監督業の苦しみも『最終予選の苦しみに比べれば遥かに』と、あの死線をくぐり抜けたのが監督業に役立っている、という話を。
他の人も口々にあの死闘が役立ってる、という話をしているのが面白い。
そして、全員のインタビューに成功したかの様に見せて、唯一、20年後の中田英寿のインタビューだけありません。
超片手落ち。
20年前の当時のインタビューの目玉は彼だったん、です。売りは。
読み進めると、当時の全員のインタビューがマジで面白いんですが。
ただ、彼の当時思ってたことは本当に欲しかった。
増島さんもそう思ってることでしょう。
もう過去の話はしたがらない、というのもまた中田英寿らしい。
イベントに出た中田と一瞬喋った談話で終わります。
この、チャリティ以外にはサッカー界に接さず、ここまで終始貢献する部分に対して協力的ではないのが、
中田英寿なんだろうなと。
それは彼の全盛期に先人として彼一人を矢面に立たせ、誰も助けなかった、誰も彼の領域に行けなかったが故に、一人先を行く彼を孤独にしたひっぺ返しなのかなと思う時がある。
恐らく、本田圭佑も香川真司も中村俊輔も何処かでまだ、返そうとしてる部分が見えるけど、中田だけは、もう勘弁してくれ、という様な徹頭徹尾さを感じる。
もう俺はいいだろ、俺はもう尽くしただろ?と。
ゴンちゃんが何処かのテレビで中田がパルマ時代に
『お前本当凄いな』と声かけたら
『俺だって辛いんだよ。』と言っていた姿を思い出すと。
あんな愚痴めいたことは、あの一回しか聞いたことないと。
逆に人にも言えないほどの苦悩を抱えて、なお弱みを見せず、一人戦っていたから27の引退なのかもなと。
20代前半から日本を背負わされて、非難も中傷も称賛も全部浴びて。
もう、自分のしたいことだけさせてくれ、人の期待に必要以上には応えない。
だからこそ、この中田英寿不在であることに不満を言うのはお門違いなのかもしれない。
ラストページにインタビューされた人たちの現在の近影が映ってるんですが、当然中田だけ不在。
最後まで相手のためには空気を一切読まない中田なんだなーと。
そんな中田だから支持していた自分でもあるんだけど。
願わくばまた30年後、インタビューしていただき、中田英寿が良い加減歳をとって年貢を納める瞬間を見たいなと思うのでした。